| 聖書朗読は、女子パウロ会HPへリンク |
||
| (現在、リンクが出来ません) | ||
| 印刷用ページが開かない時は Adobe Reader をダウンロードしてください。 |
||
| 9月|10月|11月|12月| | ||
| 2007年 | 12月2日|12月9日|12月16日|12月23日|12月24日|12月25日|12月30日| |
| 印刷用ページ(PDF |
|||
| 印刷用ページ(PDF |
|||
| 印刷用ページ(PDF |
|||
| 印刷用ページ(PDF |
|||
| 印刷用ページ(PDF |
|||
| 印刷用ページ(PDF |
|||
| 待降節第3主日 | 金 大烈 神父 2007年12月16日(日) | ||
| 《クリスマス・・・それは私達の変わらない希望》 私達は生まれてから何かを待ちながら今までやって来ました。必ず何かを待ちます。期待しながら待つこともあるし、時には何かを恐れながら待つ時もあります。私達は死ぬまで何かを待たなければならない。赤ちゃんの時から歳をとっても何かを待ちます。その待つものが何であるかによって私達の全てが変わります。 待降節ということはイエス様が降りることを待つことです。今日、その第三の日曜日を迎えています。 さあ、考えてみましょう。たぶん皆様は、皆様の歳と同じ数ほどのクリスマスを待ちの望み、そして迎えてきました。今年も待っています。何故待っているのでしょうか。何故、同じことを繰り返しながら毎年12月24日の夜を待っているのでしょう。私達にとって何かの意味があるので典礼や祭服を変えて、そのイエス様の誕生を待っているのでしょうか。それが具体的に皆様に何の意味があるのでしょうか。 信者でない方も、全然イエス様が見えないという方も12月に入るとクリスマスの雰囲気に包まれ歌ったり踊ったり、また町には色々なイルミネーションやクリスマスの歌が流れます。しかし信者である私達にとって、何故クリスマスが「意味」があって待たなければならないものか、考えていらっしゃった方はいますか? 「救い?」「救い」ですか? クリスマスにイエス様がこの世に来られたのは一つの変わらない希望です。「希望」・・私達が待っているのは希望でなければならない。特にカトリック信仰は「希望」の宗教と言われています。私達が本当に待たなければならないこと、それは希望。クリスマスというものは希望であるからです。 さあ、希望とは何なのか考えてみましょう。「待つ」ことと同じ様に私達は生まれてから何かを「希望」しています。必ず希望します。それは「夢」ということも出来ます。年齢によって夢とか希望も変わるのはあたりまえです。子供の夢とおとなの夢は違います。その違いは自然なことです。 希望それは何なのでしょうか。今、皆さんが持っていらっしゃる希望それは何なのでしょうか。カトリック教会が皆様に持って欲しいとされている希望とは何なのでしょうか。私達は変わらない希望を持たなければならない。聖書の中には色々な人が全てを捨てて、全てを諦めてイエス様に付いて行ったという表現があります。 例えばルカ・8章2節。イエス様に付いて行きイエス様に奉仕した、いわゆるエルサレムの婦人達です。その人達は色々なことでイエス様に付いて行く決心をした人たちです。その婦人たちは自分が持っている全てをなげうって、そのお金でイエス様とその一行を支えました。彼女達も子供の時からその歳になるまで色々な希望があったでしょう。その希望を果たすため、夢を手に入れるために一生懸命頑張って来たでしょう。その中でむなしさも時には成功した喜びも含め感情的にも色々な体験をしたことでしょう。しかしある日突然、イエス様との出会いによって自分の人生を変えました。自分が今まで追いかけて来た夢、希望は間違いではなかったか。“本当の「希望」について行きたい”。そして決断をしてイエス様に従うことになりました。 キリスト教が教える希望というものには必ず条件があります。それは「捨てる」ことです。捨てる時こそ真の希望は生じます。 今日、私達はクリスマスを迎えるためにこのミサを捧げています。振り返って見ましょうか。私達は信仰者としてイエス様のために諦めたことは何であったか、捨てたものは何であったか。ちょっと考えてみましょう。 自分のものを手に握って、“これは絶対諦めない”という気持ちを持って正しい希望を得ようとすることはあり得ないことです。何故ならこの世の中、色んな価値があっても、その中にキリストが教えた価値が何よりも優先的になって、その価値を求めるためにはほかの価値を捨てなくてはならない場合が多いからです。それは聖書の全ての人物達が証明することです。 何をすれば良いのでしょうか、何を諦めれば良いのでしょうか。それはそれぞれ皆様によって違うと思います。たまには憎しみ、たまには好み、たまには見栄。色々なものがあると思います。 クリスマスの真の意味は、今まで私達が間違えて来た道から解放されて、新しい道へ行く希望をイエス様が下さったことを悟り、もう一回挑戦することです。毎年キリストが来られるのを祝う意味は、その方にとって正しい生き方、正しい生き方の意味を私達がもう一回習うためです。私達は希望を持たなくてはならないです。絶対変わらない希望です。すぐ消えてしまう希望は希望ではありません。 変わらない希望、その希望を築くために何があるでしょうか。いろんなことがあると思いますが、とりあえず、心を綺麗にしましょう。清められた心によって正しい希望が見えるからです。クリスマスまであと1週間ほど残っています。今までたくさんの方がゆるしの秘跡を受けました。本当に感謝します。まだ受けていない方もいらっしゃるでしょう。私は待っています。平日でも日曜日のミサ前でも私は待っています。 中には告解は苦手だと言う方もいます。震えてしまうという人もいます。震える心が無かったら、それはゆるしの秘跡になりません。震えて見てください、自分の心のために。 中には涙を流す人がいます。それを恥ずかしいという人がいます。涙を流すことは恥ではありません。それは本能です。私は待ちます。真の希望を得るためです。 イエス様のために何を諦めたことがあるか。彼に犠牲を払いながら私が捧げたものがあるかどうか、それをまず考えて見てください。そしてそれが無かったら、私が彼から頂く真の希望のために私は何を諦めたら良いのかを黙想が出来る時間になって欲しいと思います。 ありがとうございました。 |
|||
| 印刷用ページ(PDF |
|||
| 印刷用ページ(PDF |
|||
| 2007年 | 11月4日|11月11日|11月18日| |
| 印刷用ページ(PDF |
|||
| 印刷用ページ(PDF |
|||
| 年間第33主日 | 金 大烈 神父 2007年11月18日(日) | ||||||
| 榛名湖畔「紅葉狩ミサ」 参加者:約110名(日本・韓国・ベトナム・ペルー・スリランカ・インドネシア)(バス3台) 9:00 太田教会を出発(素晴らしい晴天)
空気は冷たいが青空の下、野外ステージ上に祭壇を作り、ミサを捧げる 暑い国から来ている人達は寒さで震える可能性がありますから、できるだけ早めに終わらせていただきます。 ここに着いてこれを拾ったのですが、これは何ですか? 落ち葉ですね。過ぎてしまう、地面に落ちているただの葉っぱですよね。しかし、よーく考えてみるとこの落ち葉にも歴史があります。私達はこの落ち葉を見て、「御苦労さま」と言えるくらいの余裕が必要ではないかと思います。 (「なんでしょうか?」「雨」・・・ ミサ途中より曇り、大粒の雨がポツリ、ポツリ降りはじめた。) 日本の昔からの宗教では、あらゆるものに魂がある、そして、神になれる、ということですよね。それが神道の教えですね。しかし、私はこの場で申し上げます。この落ち葉が神ではなく、きつねが神ではなく、今、空から落ちている雨も神ではないです。あらゆるものが神になれるということではなくて、あらゆるものには神、本物の神の息吹があります。この息吹を感じられるのはひとつの信仰です。ですから、春に芽吹いて、秋には落ち、やがて朽ちて土に帰る落ち葉ですが、ただ過ぎ去るだけの空しいものではありません。すべてのものには神の息吹があります。それを見ようとするのが信仰の目ではないかと思います。 よくご覧になって下さい。この美しさは見ようとする心があれば、美しく見えます。しかし、「秋だから寒くなったんだなあ」と思うだけなら、それで終わりです。この落ち葉を見ようとする心があれば、その歴史とか意味とか、その中にあるイエス様の意思、み旨が見えるでしょう。 今日一日、私達は幸せにならなければなりません。その幸せを得るために私達がすることは、きれいな目で、きれいな心で、相手の心、自然の美しさを見るようにすることです。それができれば神様を讃える心が生じるのではないかと思います。 (「ありがたいですね」 天気は雨からみぞれになってきた) ありがとうございます。 (その後は曇り、また晴れ、吹雪で湖も見えないくらいになったり、また晴れて湖面に美しい虹を見たりと目まぐるしくも印象深い一日でした) 15:00 榛名湖出発 17:30 太田教会着 |
|||||||
| 印刷用ページ(PDF |
|||
| 印刷用ページ(PDF |
|||
| 2007年 | 10月7日|10月14日|10月21日| |
| 印刷用ページ(PDF |
|||
| 印刷用ページ(PDF |
|||
| 印刷用ページ(PDF |
|||
| 印刷用ページ(PDF |
|||
| 2007年 | 9月9日|9月16日|9月23日| |
| 印刷用ページ(PDF |
|||
| 印刷用ページ(PDF |
|||
| 印刷用ページ(PDF |
|||
| 印刷用ページ(PDF |
|||
| 年間第23主日 | 金 大烈 神父 2007年9月9日(日) | ||
| ミサが始まる前に私は誰にも自分の十字架があると申し上げました。 たいていの人は自分の十字架をさけて、おろしていきたいと思っています。 それは当然のことじゃないかと思います。十字架を拒んで生きて失敗している人も結構います。 もちろん十字架は痛いです。十字架が好きで負う人はこの世の中にいないと思います。 しかしイエス様ははっきり言っています。「自分の十字架を負ってついてきてほしい」と。 信仰者である私たち・イエス様が私の救い主と認めているなら、キリストのみ言葉に従わなければなりません。やってもいい、やらなくてもいい、というものではなく、自分に与えられた十字架を負うべきです。 しかし痛い。結局十字架をどのような目で見るかによって、その十字架が重荷になるか、逆に神に近づく、真理に近づく唯一の道になるかきまるんじゃないでしょうか。 私も十字架持っています。苦手です。できるだけ捨てたい。しかし、十字架というものは重くてもおろせる荷物ではありません。さけようとしてもついてきます。 この前、兄のトマス・アクィナス金神父が「十字架は負うものではなく、抱きしめるものだ」と言ったのも同じ話だと思います。結局自分に与えられた十字架をどのような目で見るか、何の意味があるのか、なぜ神様はこのような重い十字架を下さったのか、深刻に落ち着いて考える。それが積極的に十字架を抱きしめる方法じゃないかと思います。 さあ皆様、ご自分に与えられた十字架について深刻に考えたことあるんでしょうか。 そして、わかった、気がついた十字架を感謝の心でイエス様と一緒に、ひとつの道として受け入れたことはどの位あるでしょうか。今日の福音にありました。 「あなたの命であろうとも神様にすべて委ねなくてはならない」 ある人にとっては性格が十字架で、すぐ怒る、怒りっぽい。ある人は気が短くてすぐあきる。 その性格はたぶん生まれつきか、環境によって作られた、彼の十字架だと……。ある人は激しい 荒れた親のもとで育って性格がゆがんだ。また、貧しかったために物に欲がでる、それもその人の十字架になる。身体的に脊が低い人。子供の時から友達にいじめられた、弱い人。肉体が十字架になるでしょう。いくらがんばってもできない、劣等感につかまっている。 いろんな十字架を私も持っています。たぶん、皆様もそれぞれの痛みを持っているでしょう。 それを避けても、逃げてもそれはそのままあります。そしたらイエス様を受けてください。 ゆるしの方法、それは抱きしめること、そして意味を探します。何の意味があるでしょうか。 人間は十字架によって苦しまなかったら絶対神様に近づけない。 自分の弱さを徹底的に認めなければ私たちは傲慢になるしかない。へりくだる者がイエスさまを 見ます。へりくだる者になるためには何よりも自分の弱さを認めてください。 もしかすると、皆様の家族の一員が一番大きい十字架になっているかもしれません。 できるだけ顔を合わせたくない気持ちがする。ほんとに愛さなければならないけれど憎んでしまうかもしれません。拒まないでください。拒んでも、もっと大きくして私たちを苦しめるのが悪の勢力です。イエス様は十字架を抱きしめて最後まで行かれました。過ぎてしまうこの世の中の過程の一つとして受け入れれば、もっと軽くなるんじゃないかと思います。 第一朗読の一節を読んでみましょう。「神のご計画を知りうる者がいるでしょうか」 この十字架の意味、なぜイエス様はこのようなつらさを体験させたのか、私たちにはわかりません。しかし、何かの意味が必ずあります。それを信じるのが私たちの信仰の道ではないでしょうか。 最後に、お母さんの十字架についてお願いがあります。お母さん、妻の一番大きい役割は家族のために祈りを捧げることです。いつも心配しながらなんとかやってきたと思います。しかし、一番力ある方に家族・ご主人・子供達のためにどの位祈りを捧げてきたでしょうか。祈ってください。特にお母さんたち、祈りのある家庭は絶対くずれません。もしくずれても必ず取り戻されます。 これが二千年間続いてきたカトリックのひとつの神秘です。あまりにも悪くなっても、その家族は 戻ってきます。お母さんたち、妻の祈り、それが家族の中で一番必要であり支えるものです。 ありがとうございました。 |
|||